奈良に移り住んで23年。
予てより登ってみたいと思っていた大台ヶ原に行くことができました。
天気もよく空気もよく気温もよく散策には最高の日でした。が、昨今机の前の仕事だけで、さらには車移動で歩くこともない身体では、同行した皆様のペースにはついていけず、最終地点になんと1時間遅れで到着<(_ _)>
8時に駐車場出発して14時帰還、約6時間
最後の谷底から駐車場までの登りはつらかったですが、休み休み登って何とか帰れました(^^)/
まずは、展望台となっている日出ヶ岳。天気がよければ富士山が見えるとのことですが・・・
豆粒ほどに見える遥か彼方の山々に中から、富士山を見分ける視力がない(・・;)
※ここまではハイキング気分で気分は上々
日出ヶ岳から対面の山を登ります。正木峠・正木ヶ原・牛石ヶ原のコースです。
地元の橿原神宮隣接のご陵墓にまします神武天皇にこんなとこでお会いするとは(八咫烏もいましたが枝に隠れてしまいました)この地を超えて橿原に入られたとの意で建てられたのでしょうね。
大蛇ぐら
「約800mの断崖絶壁の上にあり、大蛇の背に乗ったようなスリルを味わえます」とのうたい文句の場所です。 今回お世話になった平田さんと岡本さん、ありがとうございました。ひとりでぷらっと来てたら日出ヶ岳だけみて帰ってたと思います。谷底と目の前のパノラマは必見です。(皆様に感謝)
大蛇ぐらからみてた谷底まで、降りるとは露知らず。相当下ってきました。まぁ下りなので比較的樂ではありますが、足の裏、ひざ、足の付け根に疲労感満載です。
さらには、この谷底からの最終道程は、ひたすら登り続ける地獄がまってました(ー_ー)!!
10歩登って休む。木を拾って杖とする。
ゆっくりゆっくりただひたすら登る
息も切れ切れ膝もがくがく
でも、登りきれました。
残念なことに、この後は写真を撮る気力はありませんでした。また、次回に・・・
三重塔としては、最大最古。生駒郡斑鳩町岡本にある法起寺(ほうきじ)。
塔の起工は飛鳥時代の684年、完成は706年。(710年が平城京遷都の年)
この塔は当時の姿をそのまま伝えているとの事で必見の価値あり。
この寺は、聖徳太子の妃である刀自古郎女(とじこのいらつめ)(蘇我の馬子の娘)を住まわせていた岡本宮の跡地と言われ、太子の遺言により子息の山背大兄王(やましろのおおえのおう)が岡本宮を寺に改めたのが法起寺の始まりと伝えられている。
この寺から見下ろす斑鳩の里はなんとも風情があり、聖徳太子が推古天皇の摂政の立場で最も内政・外交にわたって活躍している時期に、あえて飛鳥を離れこの斑鳩に遷宮したか?
などなど想いを馳せるには充分な場所でした。法隆寺と比べると見どころはあまりないですが、ゆったりとした時間を過ごせるいい場所です。
NPO法人アクティブサポートの活動にあたり、例によって畝傍山口神社へ
サツマイモの収穫と年越しのどんと祭りの準備作業など実施
今日は天気もよく葛城山や二上山などくっきり紅葉も鮮やかヽ(^o^)畑仕事に精を出す人や畝傍山へ登られる人など天気がいいと皆様活動的です。畝傍山口神社へ参詣する方もより多く感じられます。
参詣する方に朗報。畝傍山口神社に念願のトイレを建造中です。来年1月末完成予定?。
橿原市南山町南のとある畑へ
NPOアクティブサポートの理事が趣味で行っている畑訪問
畑は約600坪。約20種の野菜を栽培されています。
ここも橿原市なんです。まさに田舎そのもの(゜_゜>)
煙が似合う風景でなんとも長閑な風情です。
帰りには野菜を戴き感謝。葉っぱ付の人参初めて見たかも・・・
白菜や大根もまるまるとした大きな野菜。里芋はスーパーで買うものとは大違いでちょっとビックリです。
すべて無農薬で作られているとのことで見るからに元気な野菜です。
NPO法人アクティブサポートの管理する畝傍山西麓の県有地の草刈り日
草刈り機など不慣れなで足手まといになるだけなので、今日は専ら広報担当に専念。
ついでに、畝傍山口神社の紅葉狩りしてました<(_ _)>
畝傍山口神社
橿原市大谷町の東、畝傍山西麓に鎮座する神社で、神功皇后を祭神とし、安産の守り神として知られています。拝殿の横に陰陽石が置いてあり、男子は左・女子は右の石を「子を授かりますように」と3回さすれば、子宝に恵まれるそうです。
創始は明らかではないとの事ですが、「新抄勅格符鈔」という史料には、大同元年(806年)に、神封一戸を寄せられたとあり大同以前の創建とみられます。参考までに大同2年からの大同年間は、清水寺・長谷寺など神社仏閣の創建に枚挙にいとまがない年代です。(※794年は平安遷都)
畝傍山は、天皇家の御舎造営の用に供する御料林守護のため山麓にまつられていたと見られています。ちなみに、文安三年から天正までの間(1573~92)に山頂へ遷座され、その後、昭和15年の橿原神宮造営の際に、橿原神宮や神武天皇陵を脚下に見下ろすこととなり、山頂から現在の山麓へ遷移されました。本殿・拝殿はその際に改築され、その他の施設は山頂から移されたものです。山頂には神社が鎮座していた跡が残っています。
埴土神事
大阪住吉大社の祭典(2月と11月)に用いる土器を作るための埴土を、畝傍山山頂で採取するための行事。
祓戸大神(はらいどのおおかみ)・・・右下の写真
ご祈祷など行う際は、神官・参詣者の祓いを行ってから拝殿に入ります。これを修祓(しゅばつ)と云うそうで、その身の罪・穢れを祓戸で祓い清める神事です。
修祓の際に読まれる祓詞(はらえことば)
掛(か)けまくも 畏き(かしこき)伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)
筑紫(つくし)の日向(ひむか)の 橘の小戸(おど)の阿波岐原(あはぎはら)に
禊祓(みそぎはら)へ 給(たま)ひし時に 生(なり)坐(ま)せる
祓戸大神等(はらえどのおおかみたち)
諸々の禍事(まがごと)罪穢(つみけがれ)有(あ)らむ(ん)をば
祓(はら)へ給(たま)ひ 清(きよ)め給(たま)へと 白(もう)す事を 聞食(きこしめ)せと
恐(かしこ)み恐(かしこ)みも 白(まお)す
※古事記の神話に関係していると初めて知りました。
いい天気に誘われて、ぷらっと曽爾高原まで
橿原市の自宅から、中和幹線~初瀬街道~伊勢本街道~曽爾高原、約1時間のドライブ。
伊勢本街道か曽爾高原までの山道も、登坂力に欠けるMOVEでも比較的楽に着けました。
ただし、帰りは道は6時だというのに真っ暗闇でハイビーム全開の必然の安全運転。
曽爾高原について知識はすすき程度。何の下調べもなく、車で登りついた場所に駐車場があり、600円支払、徒歩で山道に。登ってすぐにすすきに囲まれた道をわけもわからず歩いていくとすすき一杯の空間にでした。伊勢本街道で偶然写真にとった山間の一角と納得。 目の前に亀山の頂上に延びる道。登るか登らないか日も落ちかけてきていることもあり、何分かかるかも不明。見た目でもさほどかかるとも思えないので、とりあえず挑戦。結果的には20分程度でしたが、怠惰な日常生活の私には結構堪えました。頂上についてめまい。 目の前の山々が何が何だかわからずでしたが、頂上からの景色は格別でした。夕日もきれいで日が落ちる直前まで見入ってました。お亀池まで下りてきた時にはすっかり日も暮れて灯籠に明かりが・・・。
真っ暗でも帰り道は灯籠が道しるべとなり安心ですが、道事態は見えずぬかるみもありスマホのライトで四苦八苦(懐中電灯は必須です)。
周辺は6時過ぎたらすべて店じまい。時間の感覚にかなりズレを感じた瞬間。こんだけ真っ暗だと気分は0時。この暗闇には早寝早起きの生活は必然なのかと・・・
新沢地区ボランティアによる燈花会を見学。
理事の西田さんがボランティアで参加していることもあり顔出し程度でした。
肝心の夜の燈花会は予定があり、見ることができず。<(_ _)>
しかし、おにぎりとトン汁は頂戴しました。すべて無料。近隣企業の寄付で賄っているとの事。ボランティアの人数も多くご苦労が忍ばれます。
この地域に日常的にくることはなく、方向音痴の私にはどこにいるのかまったく不明で帰り道も悪戦苦闘しました。(・・;)
當麻寺(たいまでら、新字体:当麻寺)は、奈良県葛城市にある7世紀創建の寺院。開基(創立者)は聖徳太子の異母弟・麻呂古王とされるが、草創については不明。
西方極楽浄土の様子を表した「当麻曼荼羅」の信仰と、曼荼羅にまつわる中将姫伝説で知られる古寺である。毎年5月14日に行われる練供養会式(ねりくようえしき)には多くの見物人が集まるが、この行事も当麻曼荼羅と中将姫にかかわるものである。
奈良時代 - 平安時代初期建立の2基の[重塔(東塔・西塔)があり、古代に建立された東西両塔が残る日本唯一の寺、また、日本最古の梵鐘としても有名です。。
當麻寺はこの地に勢力をもっていた豪族葛城氏の一族である「当麻氏」の氏寺として7世紀後半(天武朝ころ)建てられたものと推定されている。
いつも近くまできているものの、偶然には通りかかることもできず、今日までのびのび(約1年?)今日は予てより予定を織り込み済みでした。
得意のwikipedia引用
天智天皇の死後、672年に壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)を倒し、その翌年に即位した。その治世は14年間、即位からは13年間にわたる。飛鳥浄御原宮を造営し、その治世は続く持統天皇の時代とあわせて天武・持統朝などの言葉で一括されることが多い。
壬申の乱。数万の軍勢。美濃・尾張・近江と東国など。
671年10月、天智天皇から後事を託されたが、大友皇子を推挙して、自らは剃髪し吉野へ下る。672年6月に、挙兵を決意し、大友皇子を自殺に追い込んだ。
かなり戦略的であり、当時がどのように統治されていたのか不思議です。
即位から13年間の治世。飛鳥浄御原宮を造営し、その治世は続く持統天皇の時代とあわせて天武・持統朝などの言葉で一括されることが多い。日本の統治機構、宗教、歴史、文化の原型が作られた重要な時代だが、持統天皇の統治は基本的に天武天皇の路線を引き継ぎ、完成させたもので、その発意は多く天武天皇に帰される。文化的には白鳳文化の時代である。
橿原市 今井町にある「サガン」でランチ。
ノスタルジックを感じる風情で、なんとも落ち着きます。
ランチはご馳走になったため値段が不明ですが、ボリュームもあり。失礼な話ですが、喫茶程度のお店と思っていたのが、以外にも一品一品が実においしく贅沢なランチでした。
道はちょっとせまいですが、お店のとなりに駐車場もあり気ままに立ち寄れるお店です。
生駒高山にある川波農園を訪問。
「土の料理人」奥田さんは相変わらずパワフルでした。
ハスの畑の広さとすっぽんを素手で仕掛けから獲ろうとするなどビックリです。
平飼いのにわとりも自由きままだし、夏の野菜も実に見事な出来栄えでした。
自然と共生する姿に共感しかり。でも自分にはできない(・・;)
白樫町自治会主催の夏祭りに参加。
NPOの西田理事主催の大大和会による河内音頭や綿菓子・ポテトの出店を行いました。
まさに祭りで、子供からお年寄りまで多くの人が集っています。
自治会の方は近隣の交通整理など、ありがとうございました。
8月4日~5日 ※5日の花火大会には残念ながら仕事で出れず。来年こそは・・・
移動中の一コマ。左が耳成山。右が畝傍山。
この場所は、空が広く、暑い夏もすがすがしく感じれる場所です。
この景色は、1300年前とどの程度違うのか?
この場所から耳成山を望む場合、正面には藤原京の建造物があったハズ。
逆に今の時代のほうが何もないほどです。この環境はいつまで保たれるのか・・・
アクティブサポート活動日です。
畝傍山口神社の大祭に向け、境内や参道の清掃。盆踊り用にやぐらなどなど準備作業を行ってます。
参道の落ち葉を掃き掃除。きれいに掃き清めることができました。神社の掃除は後味が違いますよ、何とも言えないすがすがしい気分でした。
境内と参道は常にこうなくてはいけません。今日はいい汗を掻くことができ満足。
あとは大祭を向えるだけと雨の心配が・・・・
本来この祭りは、夏の雨乞いなので降ってあたりまえなのですが・・・
ここ数年夕立に見舞われております。今年はいかに・・・
中世戦国時代の街並みの中に、ちょっと昭和を感じる一面もあり。
きれいに舗装された道も違和感なく気持ちよく散策できます。
下の今井庵楽は、宿泊施設です。1日一組限定で町屋生活体験が行えます。
中町筋の生活広場の中には、喫煙所があり散策に疲れたらこちらで一服。
今日は時間があまりなく、ちょっと見してきました。
***以下wikipediaより引用***
今井町(いまいちょう)は、奈良県橿原市にある町である。中世戦国時代の町並みが残ることで知られ、世界的にも注目されている。
飛鳥時代には、「八木村付曽武橋当世八木村に俗にそむぼう乃橋というあり。聖徳太子斑鳩宮より筋違道(太子道)を経て、曽武々の橋をわたり、八木の里を過ぎて、橘宮に通い給いしなり」(玉林抄)とあるように
今井の名は無かったが、1474年(文明6年)頃初めてこの里が生まれ、里の南に清き井があり今井と号したとある。
また、聖徳太子は舎人調使麻呂(つきのおみまろ)と秦河勝から献上された愛馬甲斐の黒駒を伴って曽武(蘇武)井で休憩したと伝えられている。
奈良市中町にある霊山寺に行ってきました。
バラ園で時間が過ぎ境内の散策の時は空模様があやしくなり駆け足となってしまいました。
案の定、境内の中ほどで夕立、急いで車までダッシュ。ものすごい豪雨。
バラ園はさすがでした。種類も豊富で来たかいがあり。また、庭園内のカフェのローズ系のカフェやケーキなども満足。たぶんリピータとなります。
霊山寺の帰りに平城京により大極殿をみて、新大宮にある日本料理「川波」へ
川波はミシュラン★なのです。素材にこだわり店主自らがつくる野菜が自慢の店。
通称「土の料理人」
今日のお目当ては筍のステーキと自慢のゴマ豆腐。岩塩は少々てこづって天ぷら揚がっても間に合わなかった。帰り際には、いろいろお土産を戴き感謝です。豆ごはんにします。
葛木坐火雷神社(かつらき・います・ほの・いかづち・じんじゃ)は、奈良県葛城市笛吹(旧新庄町笛吹)にある神社である。式内社(名神大社)で、旧社格は郷社。通称笛吹神社。
子供のころテレビ番組で、笛吹童子とかいうのを思い出しますが、まったく関係はなさそうです。
神社に大砲があり”なんで???”が第一印象でした。
葛木坐火雷神社の元々の祭神は火雷大神とのこと、なんとなくわかるような気もしますが・・・
創建の年代は不詳ですが、社伝では、神代とも神武天皇の御代とも伝える。
案内版の最後には「皇室トノ関係モ亦深カリシ事ヲ拝察シ奉リ得ルナリ」とあり、由緒ある神社のようです。
磯城郡田原本町にある唐古・鍵遺跡(からこ・かぎ・いせき)の楼閣。
いつも24号線を通るたび気にはなっていた楼閣で、今回やっと見ることができました。
平成になって復元されたものと知り少々残念でしたが、弥生時代中期(1世紀)ごろの土器に描かれていたものを復元したとの事。つまり、1世紀には、この建築物はあった。
この地域は奈良盆地中央に位置し、弥生時代の環濠集落遺跡で、全国からヒスイや土器などが集まり、銅鐸の主要な製造地であり、日本列島内でも重要な勢力の拠点があった集落であったとされる。
***以下、現地の案内板より引用***
この建物の表現から宗教的な建造物でないかと考えられています。また、魏志倭人伝(3世紀)には卑弥呼の宮室は「楼観、城柵をおごそかに設け・・・」と記されています。卑弥呼の住む邪馬台国にはこのような高い建物がそびえていたのでしょう。
宇陀市大宇陀小附にある、うだ・アニマルパークで昼休憩。
ここは本当に田舎を感じる場所です。自宅から車でも30分程度の場所なのですが・・・
ビルの合間の公園でコンビニおりぎりを食べるだけでも、なんとなく気持ちいいものでしたが、ここはまさに別天地。
奈良県宇陀市榛原栗谷にある、農業生産法人(株)グリーンワーム21の柏木英俊様訪問。
有機野菜にこだわり、本当においしい安全な野菜をつくっています。
出荷の忙しい最中におじゃましました。
形を整え一つ一つがキレイにそろっていくのにはビックリ。手間がかかる地道な作業を、仲間とともに楽しげにされている姿に共感します。
又兵衛桜(またべえざくら)は、奈良県宇陀市大宇陀本郷(旧大宇陀町域)にある、樹齢300年とも言われる桜の古木。瀧桜(たきざくら)とも呼ばれる。
付近は交通規制などあり混雑する季節です。打合せの帰りよってみましたが、あいにく夕立となり車なかから撮影。雨の為、車道に停車できたのがせめてもの救い。なんとも猛々しい桜で、名のごとし!。また来年に。
橿原神宮の春に行われる祭典で、神武天皇崩御の日とされる4月3日に毎年行われる
橿原市を代表するお祭りで、地域の人々には「神武さん」の愛称で親しまれています。
橿原に20年住んでいるが、初めて知りました。
畝傍山西麓にある「まなご亭」がやっと完成しました。
西池尻町の懿徳天皇陵への参道わきに位置します。水質の悪化がひどく稲作を断念された農家の井上さんが農具小屋を「まなご亭」として改装しました。
畑の一部を、地域交流の場「まなごの里」として開放し、さらにまなごの里の会員憩いのサロンとして「まなご亭」を作られましたヽ(^o^)丿。感謝です。
最近はめっきり奈良につかり、大阪にでることもなく、やっと新しい大阪駅を拝見。
駅のホームに人があふれているのを呑気に眺めていたのですが、風雨の為、電車遅延(・・;)こんな日にのんびり写真とっているおのぼりさんの話でした。
近鉄西ノ京にある唐招提寺(とうしょうだいじ)は、古都奈良の一部として、世界遺産に登録されている。
この境内は、奈良時代をそのまま体感できる絶好のスポット。金堂は、奈良時代建立の寺院金堂として現存唯一。「続日本書紀」等によれば、唐僧・鑑真が759年に、新田部親王の旧邸跡を譲り受け、寺としたものとの事(wikipedia)